ちゃんとお燗で飲める酒はこれだけ
「本来、どういう飲み方をしていたのか?」から始めないと、日本酒の話はできません。歴史を遡ると、平城京や平安京の時代。 その頃、濁りのない酒を飲めるのは貴族だけだったといいます。それをお燗にして、平杯で、食事をしながら飲んだわけです。
――― そもそも「食中酒」だったのですね。
そこには料理人がいて、例えば干し椎茸で出汁をとって料理を作っていた。今でいうと懐石料理のようなものですね。こういった食事とともに味わう。それが本来の日本酒の飲み方でした。
――― お燗酒の美味しさはどんなところにありますか?
飲んで膨らむところです。料理の旨さを引き出して膨らませる。同時に酒の味も膨らんできて、さざ波が引くようにすっとキレる。 最後にキレることが大事です。 平杯で飲むのにも意味があります。飲み口が開いてますよね? ぐい呑みなどと違って、舌の上を酒が広がって流れていく。だから味も広がってふくよかな味わいになる。
――― 蔵元が普段お飲みになるのは、やはり?
お燗しか飲みません。
――― 「しか」!?
色々とテイスティングはしますよ。でも飲むのはほとんどこれだけです。
――― 「丹澤山 麗峰」ですね。
はい。ちゃんとお燗で飲める酒は、世の中にこれしかないので。
――― 先ほどの「膨らんで、キレる」酒なのですね。しかし、世の中にこれだけとは!
〝ホット酒〞はたくさんありますよ。ただ温めて飲めばよいと思って造られている酒です。あるいは今流行っているから造るという酒。本来、お燗酒の美味しさはどこにあるのかを突き詰めて考えていないんですよ。
主役は酒? 料理? どっちですか!?
――― 食中酒の「食」についてはどのようなものが一番合うとお考えですか。
和食ですよ! 酒造りは日本の伝統食産業の一部なのだから、王道は「和」。洋食にはワインが、中華には紹興酒がある。和食が世界遺産にもなっている今、なぜ和食に合わせた本物の酒を造らないんだ!? と。
まず和をしっかりやる。だから洋も中も生きる。「あれにも合う、これにも合う」と右往左往していては、王道がすっからかんになってしまう。合うといっても、飲んで「飲めます」という程度ですよ。脂っこいものを食べてさーっと流し込んでいるだけ。料理を膨らませていない。
――― 互いの相乗効果とまではいかない?
全然。本当の食中酒を飲んだことがないと、逆に「酒が旨い」ものを造り始めてしまう。つまり酒を主役にしてしまうのですね。そうなると料理が死ぬ。酒に味がたっぷりあって美味し過ぎたら昆布出汁なんか死んでしまいますよ。
主役は酒? 料理? どっちですか⁉ という話です。洋食、中華にはたまたま合えばそれでいい。そこに合わせようとせず、出汁に合うものをしっかり造ればほかはいくらでも対応できる。
求めている味とは違っていたんです
――― 醸造する酒の全てを純米酒に切り替えたのが26BYからとのことですが、その意向は前々からあったのですか。
ええ。三増酒を30年近く前にやめて、25年前には本醸造か純米酒だけになっていました。その時点で6〜7割が純米でしたね。そして「もう純米酒だけに絞ろう」と思っていた頃。本醸造の在庫もだいぶ減ってきていました。
「じゃあ残りも少ないから、吟醸造りにしちゃおうか」と全てを吟醸酒にして売ったんですよ。コストも関係なく。そしたら「安くて、良い酒」になったもんで、すごく売れてしまった。
――― 売れてしまった(笑)。
あまりにも売れちゃって、今度はやめるにやめられなくなってしまった。それで10年くらい色々あって。
――― それほど売れていたのに、「やっぱりやめよう」と決断したのは?
やはり求めている味とは違っていたんです。麹の美味しさがしっかり出るような味ではなかった。結局、美味しさをアルコールで薄めてしまうんですね。
やっぱり、この田園風景を守っていきたいからね
――― 地元、足柄地域での酒米作りについてお聞かせください。
神奈川県は元々お米作りには向かない土地なんです。富士山の火山灰でできた土壌ですから。関東ローム層ですね。ではどうしてこの地域では良いお米が獲れるかというと、酒匂川です。あれは暴れ川でした。
――― 氾濫を繰り返した。
ええ。川に運ばれた土砂が火山灰の上に乗っているので、ある程度は田んぼとして適した土壌になった。戦前には山田錦を栽培していたんですよ。しかし戦後はお米がないから全部飯米になってしまった。
でもうちの先代(露木良胤氏)はずっと酒米を復活させたいと思っていたんです。それで農協や農家へ話を持っていった。「種もみを用意するから何とかやってくれ」と。もう30年以上前になりますね。それで最初は山田錦をやったけど土地の気候に合わない。何か合うものがないかと探しました。
――― そこで選ばれたのが・・・
「若水」です。
――― しかし農家さんにしても酒米栽培のノウハウがないですし、躊躇されたのでは?
先代が農業試験場を巻き込んでね。最初の栽培では田んぼを区切って肥料をやる所とやらない所に分けたり、水質検査をして「どこの土地までは栽培OKにする」とか、全てデータを取って決めました。農家さんや農協には「千俵まではうちが全部買うから」と話をしました。
――― 川西屋さんが先頭に立って地域の若水栽培をけん引したのですね。それから今に至るまでずっと地元のお米を使い続けるのはどうしてですか。
そうでないと地元で農業をやる人がいなくなってしまうでしょ? やっぱり、この田園風景を守っていきたいからね。今は12〜13軒の農家さんが若水の栽培をしています。加藤(欣三)さんのところも奥さんと娘さんが続けてくれてますよ!
※記事は2017年1月発行 goo-bit第3号第3版より転載しました。