泉橋酒造の現場でリーダー役を担う高橋亮太さん。仕事中は「厳しい表情を崩さず、常に冷静沈着な方」という印象を強く持っていました。しかし、じっくり話を聞いてみると意外な一面もあるようで・・・。
◆ 亮太さんが就活中、泉橋酒造に入社するためにした意外な行動とは!?
◆ 杜氏制度から社員による造りとなり、様々な設備が導入され、業務を改善してきた10年について。
◆ リーダーとして一番重要なことは!?
◆ 長い酒蔵の歴史において、「今ここにいる蔵人」としてやるべきこと。
などなど、色々とお聞きして参りました!
泉橋酒造株式会社 栽培醸造部 高橋 亮太(たかはし りょうた)さん
◆昭和60年(1985年)生まれ、神奈川県出身。東京農業大学地域環境科学部を卒業後、新卒で泉橋酒造に入社。
◆そして10年が経った今、現場では蔵人たちのフロントランナーとして皆を引き連れて走り、家庭に帰れば愛用のママチャリで保育園への送り(夏)と迎え(冬)を欠かさない二児のパパ。
農大生、釣りにハマって酒を知る
――― 高橋亮太さんは東京農業大学の「地域環境科学部 生産環境工学科」を卒業されたそうですね。専攻は酒造りとは関係なさそうですが、なぜ酒造業界に入ろうと思ったのですか?
日本酒に興味を持ち始めたきっかけは、大学時代にアルバイトをしていた地元の飲食店にあります。そこで地魚と日本酒の旨さに衝撃を受けたんです。お店のこだわりは料理長が自ら釣った魚を使った料理を提供するところ。その厨房で3年ほどアルバイトをしていました。
――― 料理と日本酒がきっかけなのですね。農大生は大学の講義を通じて日本酒が身近にあるものと思っていました。
むしろ大学の授業そっちのけで、地元の腰越漁港から船に乗って釣りに行ったり、アルバイトを通じて色々な魚の釣り方や酒の“呑み方” を教わっていました
――― 大学に通っていたんですよね?
はい。農大、通っていましたよ。あまり大きな声では言えないですけど(笑)。その辺から「日本酒とは何だろう?」と興味が出てきて、「そういえば農大は醸造を教えているじゃないか!?」と気付いたんです。
――― でも所属は醸造学科ではない。
残念ながらそうなんです。でも調べてみると、私の学科にも日本酒に関係する「日本酒製造における精米技術」という研究があったので、その研究室を専攻しました。また醸造学科の授業を選択して受講したりもしましたね。
――― 他の学科に属していても、受講できるのですね。
はい。例えば「麹学」などを受けました。基礎が無いから最初は大変でしたけど、興味がある分野のことを学ぶのは新鮮で、今思えばとても貴重な時間でした。麹菌などは生物学系。あくまでも私の学科は物理学系ですので。
――― 精米機で米を削る工程は、物理の世界。
米粒が回転してどういう動き方をしていくのか。これは粒体力学なんです。特に私の研究室で取り組んでいたのが米の形状変化。醸造学科が所有している醸造用精米機で扁平精米をして、ノギスで米粒の幅や厚みを100~200粒ほど測ったりしました。
――― 100~200の米粒を・・・・・・想像できない世界ですね。
はい、結構つらいですよ。また精米した米から1000粒選んで、その重さを計測したり。でもそこから日本酒の世界にさらに興味が沸き、「酒造りをしてみたい」と思うようになりました。酒造業界に入ろうと決意したのはこの頃です。
二度の直談判は玉砕。しかし夏、一通のメールが届いて・・・
大学3年の冬から就職活動を始めて、一番最初に泉橋酒造に「求人募集はしてないですか?」という問い合わせをしに行きました。
――― 「しに行きました。」・・・電話をしたのではなく?
いえ、電話でなく直談判です。
――― 何も連絡せずに行ったのですか!?
はい、行きました(笑)。玉砕覚悟で。色々とお話をさせて頂くと、やはり現状は難しく、欠員が出ないと募集しないことや、その場合でも中途採用の方がよいとのことでした。
――― 経験者求むという感じですか。
そうですね。当時は社員も少なく、新入社員研修をすることもできなかったので、すぐに戦力になる方が必要であったと。
――― その時はそれで納得して?
いいえ、諦めが悪かったのでもう一度、直談判しに行きました。今思えば本当に非常識な奴だと思います(笑)。結果は、それでもダメでした。とりあえず酒蔵への就職は諦め、一般就活をしました。
でも、どうしても積極的にはなれなくて。5社程度面接にいきましたが全て落ちました。そこからもう一度酒蔵に焦点をあて、全国の酒蔵を旅して見てみようかと思っていた矢先に、一通のメールが届いたんですよ。泉橋酒造から。
――― なんと?
「新規採用募集をします」と。
――― すごいタイミングですね!
そうなんです。ちょうどもう一度、「酒造業界を目指そう!!」というタイミングでしたので再訪問すると、採用してもらえました。
――― 無事に顔を覚えられていたのですね。
二度の直談判がきいたのかもしれないです(笑)。
「とにかく駆け抜けた」この10年
――― 新卒で入社して10年が経ち、今は農業や酒造りの全体を見る立場にいる。この10年は変化の連続だったのでは?
はい。30年以上働いてこられた杜氏が6年前に退職され、そして会社自体が栽培醸造蔵と銘打つようになってから、田んぼの枚数など農業の規模も大幅に変わっています。
――― 農業や醸造の設備も増えてきた?
はい。精米機の導入は私が入社する2年前に。トラクターや田植え機、コンバインなど、農業用設備・機械の導入は入社して3年目から次々と始まりました。
また醸造では、仕込蔵の床の修繕と新規の酒造用機械の導入。既に始まっていた梅酒に続いて、味噌も造り始めました。そしてセミナールームや瓶詰め工場の新設など、特に設備面で変革の時代であったと思います。
それに伴い自社栽培米の増産と、日本酒製造量を増やすことができ、とにかく駆け抜けた10年でした。
――― 杜氏制度が無くなってからは、蔵にどのような変化がありましたか?
今まで以上に会社全体が一体となって酒造りに向き合い、そして新たなチャレンジも考えるようになりました。その1つが作業時間の変更。以前は6時からの始業でしたが、それを早朝4時からにした事です。
それによって午前中に作業する時間が長くなり、より効率的な酒造りができるようになりました。この時間システムは、夏場の農作業において取り入れているやり方。農繁期は日中の暑い時間帯を避け、午前中の早い時間に作業する。農業も醸造も「勝負は午前中」だと思って仕事をしています。
始まったら止まれない。だから「その先」を行く
――― 栽培醸造部のリーダーとして、一番重要な仕事は何ですか。
米作りと酒造りの双方で「予定を立てる」こと、そして「予定通りに実行する」ことです。私たちは現場なので、蔵で求めている酒質を具現化して作業に落とし込み、「味」を形成していくことが重要。そのためには一つひとつの工程をきめ細かく設定し、実行しなければなりません。
――― どのようなことに気を付けていますか?
私が全ての工程を見ることはできないので、それぞれの担当に任せています。ただ、結果的に予定通り造れないと日程を組み直さなければならないので、状況は把握しておく。「ここは危ないかな?」と感じたところには注意喚起します。
とにかく「川の流れ」のように効率的に作業をすることを念頭においています。流れが良くないとどこかで影響が出てくる。それと味とは関係ないように見えるけど、実はそこも深く関係していると思っています。
あとは障害物にぶつかったとしても、うまく潜り抜けていける「回避する力」も重要だと考えています。
――― 今シーズン最後の稲刈りの日。障害を “回避する力” を見させていただきました(※)。いざピンチに陥った時に「ほかにこんな手がある」とか「あの人に聞いてみよう」といった、切り抜ける方法を思いつくことが大事なのですね。
そうですね。結局、米作りも酒造りも生き物相手。うまく発酵せずに予定を崩されることもあります。なので「その先」を行っていないとダメなんです。種もみを水に漬けた瞬間から米作りが始まり、それから酒造りが終わるまでもう止まれないですからね。
(※ 平成30年11月3日、相模原市田名で取材をしたこの年最後の稲刈りの日。亮太さんがコンバインを田んぼに進入させた直後、突然刈り取り機能が動かなくなってしまいました。しばらく車両の点検をしていた亮太さんですが、程なくこのコンバインでの作業を諦め、急遽知り合いの農家さんに電話をして違う車両を借りることに。そして予定通り、この日に今年の稲刈りを終えることができたのでした。)
酒造りから農業への切り替え方法
――― 酒造りから農業への切り替えはどのようにしていくのですか。
今年(30BY)は醪の予定本数がおおよそ60本となっており、10月5日に最初の米洗いが始まって4月7日までに醪を全て仕込み終えます。順次搾って、製成して、製品にするという流れを繰り返していき、最後のお酒を搾り終えるのは5月初旬頃。その頃にはもう播種の準備が始まります。
ですので私は4月初めに米作りの予定を立て、一足先に農作業にシフトしていきます。そこから約2ヶ月間で自社管理の100ヶ所ある圃場を荒起し、畦畔つくり、草刈り、施肥、代かき、田植え。同時に育苗管理の作業を進めていきます。
また弊社の農業スタイルは一部、除草剤を使わずに赤糠除草・チェーン除草をした酒米作りや、相模原市へ1時間かけて移動して米作りする「遠征農業」などを行っており、そこも考慮しながら進めていきます。
特に農業は天候・気温に左右されるので、酒造りと米作りの作業が重なる4月、10月、11月には雨の日に酒造りの作業、晴れの日は農作業と優先順位を変えています。
――― 亮太さんの頭の中では「今は稲刈りをしているけど、その先の酒造り」を考えたり、「酒造りをしているけど、播種や田んぼの荒起こし」について考えたりしているのですね。
蔵人と家族の関係
――― 酒蔵で勤務されていることを、奥様はどのように受け止められていますか?
妻とは泉橋酒造に入社する前からの付き合いなので、この仕事のことは理解してくれています。酒造り期間は休みがあまりとれず家族との時間は限られますが、朝が早い分、子供の起きている時間に帰宅できるので、なるべくコミュニケーションをとるように心がけているつもりです。
――― お子さんは預けられているのですか?
はい。共働きですので。蔵の目の前にある保育園に息子2人を預けています。ほんとに目の前なので夏場は子供を預けてから出勤し、酒造り中は迎え担当になります。
――― 造りの季節は朝が早く、終業時間も早いから迎えに行けるのですね。
手間をどれだけ楽しめるかで、“酒の色” が変わるんじゃないかな
――― 泉橋酒造の酒造りは比較的手のかかる手法を色々と用いられていますね。
そうですね。効率だけを重視し、オートメーションの酒造りもあります。ですが、手間をかけた製造法は、面白さが違う。思っている以上のものができると感じています。
――― 手間をかけることで酒質は向上する?
そこが難しいところで、手間のかけ方でも変化する。完全にイコールでないと思いますね。
――― 様々な工程があるからこそ、そのままストレートに出るわけではない?
そうですね、手間をかけたからといって良い酒にならないことももちろんあります。結局のところ米作りも酒造りも生き物相手。すごく複雑怪奇なんです。
――― それでも、それをやめる方向にはいかない。
そこは「いづみ橋」というスタイルでは米作りと酒造り、この2つのノウハウの歯車がしっかり噛み合って酒が仕上がっているから。そこに手間を費やし、どれだけ楽しめるかで酒の色も変わるのではないかと思ってます。
美田を残す
――― 次の時代に向けて、「今ここにいる蔵人」がやるべきことは何だと考えますか?
「美田を残す」ことです。後世にこの田んぼを残していく。良い酒を造るには美田でなければできないと思いますし、蔵として安政4年からこの地で酒造りをしてこられたのも、美田を残してくれたからだと感じています。
そして麹蓋での麹造り、生酛造り、槽搾りなどの伝統的な製法を継続し、後世に伝えていく。それが使命だと考えています。